信仰と割礼(2021/2/14) 熊江秀一牧師

「信仰と割礼」

創世記15章4~6節/ローマの信徒への手紙4章7~12節

熊江秀一牧師

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パウロはダビデの歌を引用し、神の民の幸いを歌った。それはこの世の繁栄でも、成功でもない。神が罪を赦し、受け入れて下さる幸いである。

この幸いを受けるのは誰か。割礼を受けたユダヤ人か。割礼のない人にも及ぶのか。これはパウロの時代の教会にとって問題であった。

 これに対してパウロは、再びアブラハムを引用する。アブラハムは信仰によって義とされた。その後に割礼が施されたのである。割礼とは信仰によって義とされたしるしである。契約を結んだ時の印鑑のように。しかしそれは「しるし」にすぎない。割礼ではなく信仰こそが大切である。

 神が私たちと結んで下さる契約は、割礼と関係はない。一方的な恵みの契約である。アブラハムが信仰によって義とされたのは無割礼の時であった。これは彼の働きがない時とも、彼が異邦人だった時とも読むことができる。しかし神はそのアブラハムに恵みにより臨み、信仰を義とされた。何の誇るべきものも持たない者が、何の功績もない者が、ただ神の恵みを受け入れたという信仰、これがアブラハムの信仰である。私たちはそのアブラハムの「信仰の模範(足跡)」に続くのである。

 しかし私たちはこの道を知っていながら、そこから迷い出る。そして割礼のような目に見えるもの、この世の誉れをよりどころとし、罪と滅びへと進む。その現実にキリストが踏み込んで下さり、命がけで探し求め、救い出して下さった。今、私たちはキリストにあってこの道へと招かれている。

この救いの道へ立ち返ろう。不信心な者を義とされる恵みの信仰へ、罪人を赦して義と認めて下さる恵みの信仰へ、働きがなくても神の民として下さる恵みの信仰へと立ち返ろう。そこに私たちの幸いがある。

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