信仰か、行いか(2021/7/18)熊江秀一牧師

■聖書:
ローマの信徒への手紙9章30~33節
イザヤ書8章13~15節

■説教要約:

キリストによる神の義が実現した時、その義を得たのは「義を追い求めたイスラエル」ではなく、「義を求めなかった異邦人」だった。
なぜか。イスラエルは「信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたから」である。律法によって義を求めた彼らは、向かうべき方向から間違っていた。彼らは熱心に求めれば求めるだけ、救いから遠ざかった。
大学時代、ツーリング中、山道で迷った私は、自力で道を探し、さらに深く迷ってしまった。日が落ち、私は一度エンジンを止め、ライトを消した。すると闇の中、それまで見えなかった集落の明かりが、遠方に見えた。それで帰宅することができた。
自力で救いを求める時、それは遠くなる。しかし、立ち止まり、自分の光を消す時、キリストの救いの光を見ることができる。
神の義は、私たちの正しさや知恵や力で手に入れることはできない。むしろ自分の光を消して、ただ信仰に生きる時、与えられる。
ここでパウロはイスラエルの姿を「つまずきの石につまずいた」と言った。それはだれしもある。この「つまずきの石」は主イエスである。パウロはイザヤ書を引用しつつ、この石は、同時に「隅の親石」「救いの岩」となったと語る。
私たちが行いに生きる時、私たちの信仰生活はこの石につまずく。しかし信仰に生きる時、それは救いの岩となる。
主は私たちが何度もつまずいても、忍耐を持って待ち続け、十字架の命を持って執り成す。主は、つまずきの中で、私たちに問いかけ、悔い改めて信仰に生きるように導く。だからこそ御言葉に耳を傾け、自分の行いをほこるのでなく、自分を空しくして、神の前に自分の光を消して、キリストの光に目を向けよう。

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