何を目標とするか(2021/7/25)熊江秀一牧師

■聖書個所
ローマの信徒への手紙10章1~4節
詩編119編33~40節

■説教要約
パウロには祈りがあった。それは同胞イスラエルの救いであった。1節の言葉は文章としては整っていない。ため息と嘆きの祈りの言葉である。イスラエルの現実を思う時、パウロはその救いを祈らずにはいられなかった。このパウロの祈りは私たちの祈りでもある。
それではなぜ神の民イスラエルが救いにあずかれないのか。それは「神の義を知らず」「自分の義を求め」たからである。彼らは律法に従い「熱心に神に仕え」ていた。しかし「この熱心さは、正しい認識に基づくものでは」なかった。どんなに熱心でも正しい認識に基づかず、目標を誤る時、救いにあずかれない。
この警告には、パウロ自身のにがい経験が込められていた。彼は律法に対する熱心さゆえにキリスト教会を迫害してきた。また律法に熱心だった人々によってキリストは十字架で殺された。熱心さに潜む危険はだれにでも伴う。熱心な時こそ、常に立ち止まり、祈ることが大切である。
この「正しい認識(知識「口語訳」)」とは何か。それは主を畏れ敬うことである(箴言1:7)。そしてキリストを目標とすることである。目標は「終わり」「完成」とも訳せる。キリストこそ律法の「目標」であり、私たちの救いを完成させるお方である。この方を目標とする時、私たちの行いやすべてはキリストにつながる。私たちはキリストにつながり、キリストという目標に向かって歩む。
キリストは「信じる者すべてに義をもたらすために」来て下さった。しかもご自身の命を捨てて、律法では実現できなかった救いを実現された。キリストこそが、唯一の救いであり、歩むべき目標であり、救いを完成して下さるお方である。このキリストにつながり、キリストを目標として歩もう。

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