人間の惨めさと救い(2021/5/16)熊江秀一牧師

ローマの信徒への手紙7章14~25節
創世記1章26~28節

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」。このパウロの叫びは、私たちの叫びである。「神のかたち」に造られた私たちは、神の本質(愛や正義、公平)を与えられた。心ではそれを願っている。しかし現実は望まない悪を行っている。それは「わたしの中に住んでいる罪」のためである。

  この罪の恐ろしさをパウロ自身もよく知っていた。彼は律法を誰よりもよく学び、熱心に守った。しかしそれにもかかわらず自分の中に住む罪の葛藤にあった。この「惨めさ」は滅びにいたる惨めさである。「死に定めらえたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と叫ぶ。

 しかしこのパウロの叫びは賛美に変えられた。主イエスによる神の救いである。パウロの叫びの「救い」は「救い出す」という強い意味を持つ。主は惨めな私たちを「救い出す」ために、ご自分が惨めさのどん底を経験された。裏切られ、捕らえられ、裁かれ、侮辱され、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と十字架で死なれた。この主の惨めさによって、私たちは救い出された。

 しかし私たちは今でも自分の惨めさを感じてしまう。パウロもそうだった。主と出会った後も「肉では罪の法則に仕えている」現実を告白する。しかしこの自分の惨めさを知って歩むことが、救いに生きる上で大切なことである。「『わたしはなんと惨めな人間なのでしょう・・』という叫びを、再び獲得することによってしか、我々は救われない」(ルター)。

パウロは常に自分の惨めさを感じた。同時に「主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と賛美し、主の救いの道を歩んだ。これがキリスト者である。自分の罪を知り、主の救いの道を歩もう。

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