主に愛された弟子(2020/10/18) 熊江秀一牧師 

「主に愛された弟子」

創世記19章17~26節/ヨハネによる福音書21章20~25節

熊江秀一牧師

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ヨハネ福音書の最後が与えられた。牧会者として新たに歩み始めたペトロは、その直後、後ろを振り向いた。旧約聖書でロトの妻も後ろを振り向いた。裁きの時、自分の家や財産が気になり、神が与えた救いから目をそらしてしまった。すると彼女は塩の柱となった。

なぜペトロは後ろを振り向いたのか。主の愛しておられた弟子ヨハネがどうなるのか気になったからである。私たちは他人のことが気になり、自分と他人を比べて一喜一憂してしまう。カルヴァンはこのペトロの姿を好奇心の罪と呼んだ。その罪の姿は私たちの姿でもある。

それに対して主は語る。あの弟子のことは「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」。ペトロのように殉教の死を遂げる主に従う人生もある。また長く生きて主に従う人生もある。しかし大切なのは自分と他人を比較することではなく、主に従う自分の人生を全うすることである。

この主の言葉は後に教会の中で誤解された。ペトロの殉教を高く評価するのに対して、長寿のヨハネを低く見る風潮があった。それに対して、ヨハネは死なない特別な祝福を主から受けたのだという噂が教会の中に広まった。しかしそれはここで否定される。そして主の御言葉の真意を心に刻むことが告げられる。

ギリシャ語では「殉教者」と「証し人」は同じ言葉である。主を証する人生を全うした人はすべて殉教者である。

「生きている」(22節)は、ぶどうの木のたとえの「つながる」という同じ言葉である。主に「つながる」ことが「生きる」ことである。

主は今も生きて働き、その御業は世界にあふれている。主に愛された弟子の群れとして、証しの人生を全うできるように共に歩もう。

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