「ペトザタ池での出来事」(2018/06/03 熊江秀一牧師)
「ペトザタ池での出来事」 詩篇42章2節~7節/ヨハネによる福音書5章1節~18節
熊江 秀一牧師
主イエスはペトザタの池において、38年間病気で苦しむ人と出会った。主はこの病人に「良くなりたいか」と問う。この問いは、この人の心を深くえぐる言葉となる。「主よ、わたしを行けの中に入れてくれる人が誰もいないのです」。原文では「主よ、私には人がいない」から始まる。この人は、いやされたいという願いよりも、私にはだれもいない、助けてくれる人がいないという孤独の現実を主に嘆いたのである。
この人の言葉は、私たちの現実でもある。私たちも主の救いの問いかけに現実を嘆き、「私には誰もいない」と孤独を訴える答えをするのである。
しかし、そんな彼のもとに、主の方から近寄られ、隣人となって宣言する。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。主との出会いによって、彼はいやされるとともに自分の現実を担って歩む新しい人生を始めた。さらに「起き上がりなさい」は「復活しなさい」とも訳すことができる。主との出会いは、死を越えて永遠の命の恵みを与えてくださる。主は十字架の愛を持って、私たちにもこの宣言を与えてくださる。
しかしユダヤ人たちは、床を担ぐいやされた人を見て、安息日違反だと咎め、さらに主イエスに殺意を抱く。彼らにとって病人のいやしよりも、律法の字面が守られることが大切だった。この姿は、私たちにも問われている。そんな中で主は宣言される。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と。私たちが救われ、神の栄光が現されるために、主は今も働いておられる。神の働きは主の十字架と復活による救いとして実現している。主にいやされ、私たちも「自分の床」を担いで歩み出したい。