洗足の出来事(2020/04/05 熊江秀一牧師)*説教音声あり
「洗足の出来事」ゼカリヤ書9章9節~11節/ヨハネによる福音書13章1節~15節
熊江秀一牧師
受難週、棕櫚の主日に主の洗足の箇所が与えられた。主は最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗い始めた。当時、汚れた足を洗うのは奴隷の役目であった。その洗足を主がなさった。弟子が主の足を洗ったのでなく、主が服を脱ぎ、奴隷のように弟子の足を洗った。
「服を脱ぐ」は「捨てる」の意味を持つ。「私はよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」。この行為は羊である私たちを救うために命を捨てる、主の十字架を示している。
しかしこの時、ペトロは恐縮し、辞退しようとする。素直な気持ちであろう。主は「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」と告げる。 この時、ペトロは主の十字架の愛が分かっていなかった。主の愛をいただき、その愛に生かされることが、主の弟子として最も大切なことである。しかし私たちもそれを忘れてしまう。主の前での謙虚さとは主の恵みをただ受け入れるである。
この洗足の出来事は、洗礼と深く結び付いている。またこの晩餐は、聖餐のルーツとなった。私たちも今日、洗礼を受けた時の心に立ち返り、聖餐にあずかりたい。
さらにこの洗足の出来事には主の模範の意味が込められる。主に足を洗っていただいた者として、互いに足を洗い合い、愛し合うのである。私たちも主に洗っていただいた者として、この群れの中から愛に生きる歩みを始めよう。
主はこの後、十字架の道を歩み始められる。主は人間の罪の現実に自ら飛び込んで下さった。新型コロナウイルスの不安の中にも、十字架の主は私たちと共におられる。このような時だからこそ、主の十字架をあおぎ、その愛を共に受けて、私たちも互いに愛し合って歩んで行こう。