私を清くすることがお出来になります(2019/09/22 高橋真之伝道師)
「私を清くすることがお出来になります」レビ記14章1節~9節/マタイによる福音書8章1節~4節
高橋 真之伝道師
イエス様が山上の説教を語り終えられ、一番初めにしたことは、重い皮膚病を患った人を癒すことでした。私たちは、この癒しの出来事が山上の説教のすぐ後になされたということが、とても大切な意味を持っていることをまず心に留めたいと思います。
イエス様の山上の説教とは、私たちを天の国へと招く招きの言葉です。そして、この招きとは全ての人にむけられているのです。イエス様によって癒されたこの病人は、当時、まるで人間扱いされていないような人でありました。しかし、イエス様は癒しの出来事を通して、この人にも天の国への招きが与えられているということを、はっきりと人々にお示しになったのです。
この病人は、イエス様に「あなたの御心ならば、わたしを清くすることがお出来になります。」と言いました。なんとも回りくどい言い方に聞こえます。しかし、この人の言葉には、イエス様の御心ならば何でも実現する、という彼の信仰が現れているのです。そしてイエス様は、彼の言葉を受け取られ、「よろしい、清くなれ」と仰いました。
「よろしい」とは「これが私の御心だ。」と訳せる言葉です。イエス様は、「御心ならば」と言ったこの人に、御心を示してくださったのです。そしてここで大切なことは、このイエス様のこの癒しは、単なる病の癒しで終わらないということです。この病人を苦しめていたのは、病そのものよりも、その病によって自分が神様から見捨てられた者だと、周りからもそして自分自身でさえも思っていたことではなかったかと思うのです。しかし、イエス様は癒しを通して、「あなたは神様から遠くない、あなたも天の国に生きるのだ。」そのことを示してくださいました。
私たちもまた、この病を持っています。それは「罪」という病です。しかし、イエス様は罪の赦しを与えてくださいます。あの重い皮膚病の人は、イエス様に跪き、つまり、イエス様を礼拝する中で癒しが与えられました。それと同じように私たちもイエス様を礼拝する中で、罪の赦しが与えられます。何度も罪を犯す私達です。しかし、礼拝のたびに私たちは赦しをいただくのです。だからこそ、私たちは赦された者として歩むことができるのです。