「悲しみよ、さようなら」(2020/03/01 熊江秀一牧師)*説教音声あり
「悲しみよ、さようなら」詩編22編2節~6節/ヨハネによる福音書16章16節~24節
熊江 秀一牧師
受難節最初の主日に、主の決別説教より御言葉が与えられた。別れを予告され、不安と悲しみにあった弟子への励ましの言葉である。「あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」。「しばらくすると」はミクロの単位の元の言葉である。主との別れは人が分からないほどの時にすぎない。主はいつも共におられるのである。
それではなぜ人は苦しみや悲しみがとても長く感じられるのか。それは主を見失ってしまうからである。共におられるのに私たちは悲しみの中で主を見失ってしまう。だから悲しみが長く感じられる。しかし主は私たちを見捨てず、愛の眼差しで見続け、私たちが気づくように声をかけて下さる。
主の墓で泣いていたマグダラのマリアに対してもそうだった。また主の十字架の後、故郷ガリラヤに戻り、漁をしていた弟子たちにもそうであった。悲しみの中にあった彼らを主は見ていて下さり、声をかけてご自身を示し、喜びを与えた。そのように主は私たちが悲しみの時も、主を見失った時も共にいて、愛に満ちた眼差しと、御言葉によって出会って下さり、心の目を開いて下さる。その時「悲しみが喜びに変わる」。
その姿を主は出産を例として語られた。なぜ主は出産を例としたのか。それは主自らも産みの苦しみを経験されたからである。それは罪人である私たちを新たに神の子として産み出すという苦しみである。主は十字架という産みの苦しみを経験され、私たちを産み出して下さった。
私たちに大切なことは主の名によって祈ることである。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたは喜びで満たされる」と主は宣言する。十字架の道を歩む主に祈り、願おう。