神の怒りと救い(2020/11/15) 熊江秀一牧師

「神の怒りと救い」

詩編19章1~15節/ローマの信徒への手紙1章18~32節

熊江秀一牧師

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人は被造物を通して「神を知ることができる」。しかし「神をあがめることも感謝することも」しないとパウロは告げる。私たちは「むなしい思いにふけり、心が暗くなり」、神ならぬ偶像に頼る現実にある。

今日の箇所は「夜」「トンネル」と呼ばれる。その私たちの現実に対する最も厳しい言葉として「神の怒り」が宣言される。

聖書の罪は、関係の破壊である。神との関係、隣人や自然との関係を壊してしまう姿である。

24節以下には人間の罪が描かれる(29節以下は悪徳表)。私たちはこの罪が自分の姿であることを心に留め、神の怒りの対象であることを心に留めなければならない。

 神の怒りとは何か。それは決して不当ではなく、神の義による正当な怒りである。そして大切なことは、神の怒りは私たちを罰する姿で実現したのではなく、キリストを十字架にかける姿で実現したことである。

だから神の怒りと神の救いは別のことではない。神の怒りは福音の中で実現した。それが神の義である。

神は人間を欲望のままに「まかせられた」(24節)。しかしローマ書にはもう一か所、この言葉が登場する。「わたしたちすべての人のために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(8:32)。「渡された」と「まかされた」が同じである。神は欲望に転落する私たちのために、御子キリストを与え、十字架の死に「まかせられた」。そして御子によって、神は私たちにすべてのものをお与えになる。

「主よ、あなたはわたしの義。わたしはあなたの罪」(ルター) 。私の罪が主に移り、主の義が私に移る。この十字架の福音に堅く立ち、信仰に生きよう。

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