礼拝説教要約 「神の国の恵みに生きる」 (2023/11/19)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所
マルコによる福音書 4章21節~34節 イザヤ書 60章1節~3節
■説教要約
神の国について語られた主のたとえが与えられた。
まず「ともし火のたとえ」。「ともし火を持って来る」の原意は「ともし火が来る」である。このともし火は、闇の現実に来られた光、主イエスである。ともし火を燭台の上に置いて、家中を照らすように、私たちは主の光に照らされることが大切である。
しかし私たちの現実は、主を升や寝台の下に置いてしまっている。ともし火を升や寝台の下に置くのは、火を消し、光を捨てることである。そのように主は人々に捨てられ、十字架にかけられた。主の十字架は昔のことではない。私たちの問題である。
その意味で「秤」のたとえも心に留めたい。私たちは自分の「秤」ですべての物事を量って生きている。主の恵みに対しても同様である。
そんな私たちに主は「あなたがたは自分の量る秤で量られる」と告げる。その秤によってある人は沢山の恵みを受け、ある人は恵みを拒絶する。それではどうすれば自分の秤はよいものになるのか。それは悔い改めである。御言葉に聞き、神の前に悔い改めて生きることである。
「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」。主は升や寝台の下に置かれるように、殺され捨てられた。しかし主は復活され、私たちを希望の光で照らした。主は十字架と復活によって神の国の恵みを与えた。 それを種としてたとえたのが「成長する種」「からしだね」のたとえである。主の十字架と復活による神の国の種は、ちっぽけだったが、今や大木となり、豊かな実りとなった。それは人知を越えた神の御業である。
私たちもその木に招かれた。光として来られた主を迎え、悔い改めの心の秤を持って、神の国の恵みに生きよう。