礼拝説教要約「誘惑を受けた主」(2023/7/2)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所
マルコによる福音書 1章12~13節 イザヤ書 11章1~10節
■説教要約
マルコ福音書のサタンの誘惑の箇所は、他の福音書のような3つの誘惑はなく「野獣と一緒におられた」と語られる。マルコはこの出来事の中心を語った。
それは主イエスが私たちと同じになって下さったということである。誘惑は洗礼に続いて起こった。主は洗礼を受ける必要がないにもかかわれず、私たちと同じになって洗礼を受けた。同様に主はサタンの誘惑を受ける方でないにもかかわらず、私たちと同じように誘惑を受けたのである。主が洗礼の直後に、誘惑を受けたことは象徴的である。洗礼を受けた私たちも誘惑を受けるからである。洗礼の後の方が、誘惑との戦いは激しい。サタンは私たちを神から離れ去れ、荒んだ心へと陥らせようとするからである。それが荒れ野である。荒れ野で私たちは神の恵みを受ける。しかし同時にサタンは荒れ野で私たちを神から離れさせようとする。私たちは荒れ野のただ中に生きている。
しかしその荒れ野に主イエスが来て下さり、私たちと同じになってサタンの誘惑を受けた。しかも主を荒れ野に送り出したのは神の「霊」。しかも霊は強いて「送り出した」。神はこの世の荒れ野のただ中に、私たちのために、独り子イエスを送られたのである。 「それでイエスは民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならなければならなかったのです」(ヘブライ2:17)。
そして「野獣と一緒におられた」。イザヤ書11章の実現である。人と野獣が共に生きる終末の楽園が平和の主によって実現したのである。私たちは罪によって楽園から追放され、荒れ野に生きることになった。しかし主イエスが私たちの荒れ野に来て下さり、サタンの誘惑に勝利され、荒れ野は楽園へと変えられた。その喜びに共に生きよう。