礼拝説教要約「見よ、この男を」(2023/3/12)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所
ヨハネによる福音書 18章38節b~19章16節a イザヤ書 53章1~12節
■説教要約
ローマ総督ピラトは一人の人を示し「見よ、この男だ」(ラテン語で「エッケ・ホモ」)と言った。この男とは主イエスである。
ピラトがイエスを裁判しての結論は「わたしはあの男に何の罪を見出せない」であった。それで過越祭の慣例によって主イエスを釈放することをユダヤ人たちに提案した。しかし彼らが釈放を求めたのは強盗バラバであった。ユダヤ人たちは愛と信仰に生きた主イエスよりも暴力に生きた強盗の方を選んだのである。これは私たちの姿であり、決して他人事ではない。
ピラトは驚き、主イエスを捕らえ、鞭で打たせた。さらに兵士は茨の冠を主イエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、「ユダヤ人の王、万歳」と侮辱し平手で打った。ピラトはそうすることで、こんな惨めで無力な男が「ユダヤ人の王」であるはずがないと、主イエスの無罪を示そうとした。
そしてピラトは主イエスを人々に引き出し告げる。「見よ、この男だ」。しかしピラトの思いとは裏腹に祭司長たちは「十字架につけろ」と叫び続けた。
「見よ、この男を」。私たちは茨の冠をかぶり、鞭打たれ、十字架にかけられる主イエスのお姿に何を見るのか。
私たちはこの主イエスに見る。神が私たちに与えた苦難の僕を。その方による神の愛と救いを。それはイザヤ書53章で預言された。
イザヤは告げる。弱々しく、人々に見捨てられ、病と痛みに苦しむ苦難の僕としての主のお姿を。この主の僕の苦難によって、この主の僕の死と執り成しによって、私たちがいやされ、平和が与えられたことを。
讃美歌280番にもこの主のお姿が「この人を見よ」と歌われる。
私たちも十字架の主イエスを見つめ、神のこよなき愛を、神の救いを見て、信仰の道を歩もう。