礼拝説教要約「私たちは神の作品」(2025/9/28)を掲載しました
担当 佐藤 潤 伝道師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
エフェソの信徒への手紙 2章1~10節 詩編 23章1~6節
エフェソの教会には、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の分断がありました。パウロは両者に向けて、皆が等しく罪人であることを告げています。「過ちと罪」とは神が定められた正しい道を踏み外し、神の御心から外れた歩みをすることです。人間は「過ちと罪」によって死んだ状態にあり、神に背く力に従い、肉の欲のままに生きる者でした。その結果、生まれながらにして神の怒りを受けるべき存在であるとパウロは言います。
神は、このような私たちの「過ちと罪」のために、愛する独り子イエスを世に遣わし、十字架の死と復活を通して罪の赦しを与えてくださいました。信仰によって私たちはキリストと共に生かされ、復活し、天上で共に座に着けられています。これは、洗礼によって「キリストと共に死に、共に生きる」者とされていることを意味します。救いは人間の努力や行いではなく、神の恵みによる贈り物です。だからこそ人は誇ることなく、ただ神の恵みに感謝して生きるのです。
私たちは神によって新しく造られた「神の作品」です。救いは単なる安心や生活の改善ではなく、本来の姿である神との正しい関係に生きる「新しい創造」です。この新しい創造は、キリスト・イエスにあってです。主イエスによる十字架の死と復活によって新しく創造されたのです。その目的は「善い行い」に歩むことにあります。その歩みは、自分の力によらず、愛の交わりの中で生きることです。「善い行い」するために、神は前もって備えてくださっていたのだと、救いの確かさをパウロは告げています。 私たちは教会に集められ、互いに祈り合い、赦し合いながら、キリストの体を形作る「神の作品」とされています。礼拝と聖餐を通して神の愛を受け、本来の姿を回復し、日々の生活で神の恵みを証しすることへと招かれているのです。