礼拝説教要約「神を信じる時」 (2025/2/2)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 11章12節~22節   ホセア書 6章4節~6節
  
 

 葉ばかりで実のない、いちじくの木を見て、主は呪いを宣言した。私たちの罪を明らかにし、悔い改めさせるためである。

エルサレムは過越祭の季節で賑わっていた。主はその中に人々の罪を見た。そして神殿の境内の商売人や両替人の台を覆し、怒りをあらわされた。

 彼らは礼拝の時に捧げる供え物を売り、神殿税の両替をする人々であった。手数料を取って、彼らや神殿の祭司たちは利益を得ていた。

しかし彼らだけを悪者にして済ませることはできない。これは私たちの問題である。

 主は宣言する。「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。私たちは神の前に生きる姿勢、祈りそのものが問われる。

主は私たちの現実をファリサイ派の祈りでたとえた。

「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に2度断食し、全収入の十分の一をささげています」(ルカ18:11)。

 罪は一言で自己中心である。それは「人生を私する罪」である。それが神から与えられたものであることを忘れて、自分の手の中におさめ、自分の成功と繁栄と正しさを求め、誇る。それは葉を茂らせつつも実のない、いちじくの姿である。

神が喜ぶのは、私たちが神の愛に生き、神の御心を知る(ホセア書)という実をみのらせて生きることである。それから遠い現実を主は見て、怒り、それは滅びの道であると語ったのである。

 しかし主はこの滅ぶべき私たちに代わり、十字架にかかられた。主自らがその呪いを受け、滅びを経験し、私たちを救われた。この主が私たちに宣言する。「神を信じなさい」。主の怒りを心に刻み、悔い改めて歩もう。



  



 

  

 

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