礼拝説教要約「神に喜ばれるのは」 (2025/5/11)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 12章38~44節   ホセア書 6章4~6節
  
 主イエスは、律法学者とやもめの姿を通して、神に喜ばれることを示す。

 まず主は「律法学者に気をつけなさい」と告げる。彼らは自らの地位や称賛の中、高ぶり、名誉や利益を求めるようになった。主はその律法学者の高ぶり、貪欲の姿に警告を与えた。しかし私たちは律法学者への非難だけで終わってはならない。律法学者と同じ過ちを犯さないようにという私たちへの問いかけとして聞くことが大切である。

 この姿と対照的に語られたのは貧しいやもめである。エルサレム神殿では献金をする時、祭司に自分の名前と献金の目的、金額を告げた。祭司はそれを大声で告げた。それを群衆は聞き、その額によって歓声をあげた。主はその「様子」を見ていた。

その中で一人の貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を捧げた。今の百五十円ほどである。主はやもめの献金を見て「誰よりもたくさん」捧げたと宣言する。

金持ちたちは有り余る中から捧げた。しかも自分の名誉と利己心のために。しかしこのやもめは自分が生きるに必要な「生活費を全部入れた」。「生活費」は「生命」「いのち」とも訳せる。彼女は自分の生命、全存在を生ける神に委ねて捧げた。ここに私たちの礼拝の姿、捧げる心がある。

 しかしこのやもめの姿以上に心に留めるべきことがある。それは主のまなざしである。主はやもめの心の奥深くまで見て下さった。そのように主は私たちのことをすべて見て、理解される。さらに主のまなざしは、高ぶりや貪欲に生きてしまう律法学者にも注がれる。

そして主は私たちのすべてを見て、知った上で、十字架の道を歩み自らを罪の贖いとして捧げ、私たちに救いの道を備えて下さった。

主の十字架の愛のまなざしの中、やもめが捧げたその心を、礼拝の心として歩もう。

 



  



 

  

 

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