礼拝説教要約「清さと汚れ」」(2024/5/5)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(新共同訳)
  
  マルコによる福音書 7章1節~23節   イザヤ書 29章13節~14節

   

「ガリラヤの春」と呼ばれた主イエスの伝道に相対するように、陰のような反対勢力が現れて来る。エルサレムから遣われた「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち」である。

彼らは、主の弟子の中に汚れた手のままで食事をする者がいることを、主に指摘し責める。これは衛生面ではなく宗教上の汚れのことである。この教えは律法にはない。律法を解釈する中で人が生み出した「言い伝え」の規定である。当時、多くの「言い伝え」が生み出され、律法と同じ権威を持っていた。律法は人が神の民として歩むために神が与えた。
しかし律法を解釈して人が生み出した「言い伝え」は、律法の目的を離れ、掟を守ることのみに心が奪われることにもなった。

主はそれをイザヤ書から「口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と指摘する。私たちも常に問われることである。

主はその実例を語る。「父と母を敬え」(十戒の第5戒)よりも、言い伝えの「コルバン」を重んじる姿である。コルバン(神への供え物)と宣言をすることにより、両親に対する義務や責任を回避する者がいた。「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」姿である。

なぜそういうことがおこるのか。それは汚れと清さに対する誤った理解からである。私たちはこれまで、人の汚れは外側から入ってきて、私たちを汚すと考えてきた。しかし主は「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来る」と宣言する。

それでは私たちが清く生きるためにはどうすればいいのか。それは自分の汚れの現実を知り、主の憐れみによって十字架の血潮で罪を洗い清めていただくことである。私たちは赦された罪人である。ここに私たちの清さがある。



 



  



 

  

 

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