礼拝説教要約「復活の時」 (2025/3/16)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 12章18~27節   出エジプト記 3章1節~6節
  
 

 復活は、聖書で最も大切であると同時に、最も理解に苦しむ教えである。

復活に否定的なサドカイ派の人々が主に問うた。モーセの教え(レビラート婚)に従って、妻が七人の兄弟と結婚したら、復活の時、彼女は誰の妻になるのか。

 彼らは復活をこの世の次元、今の生活の延長線上で理解しようとした。

 それに対して主は「復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになる」と宣言する。復活とはこの世の生とは全く違う。新しい世で全く新しく天使のようになることである。

 私たちも復活をこの世の延長線上で考えてしまう。私たちは天で先達たちと再会するという信仰を持っている。教会はそのことを大切にしつつ、同時に警戒もしてきた。ある婦人の夫が天に召された後、彼女は牧師に「私が死を迎えた時には、また夫と一緒に生活できますよね」と尋ねた。すると牧師は「分かりません」と答えた。このやり取りは復活について問いかける。彼女は復活を地上の生活の延長線上で理解し、夫婦の愛の絆に慰めを求めた。しかし復活の希望はそこではなく、神にある。讃美歌465の原文が「神はあなたと共におられる。私たちがまた会う日まで」と歌われるように。神に、神が共におられることに、私たちの復活の希望がある。

 さらに主イエスは宣言する。この希望はモーセの書からすでに始まっていることを。主イエスは「柴の箇所」を引用して、神が「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と告げたと語る。すなわち彼らは死んだけれども、主にあって今も生きていると告げる。

 これらの主の宣言は、十字架を目前に語られた。主の十字架と復活によって、すべての人が主にあって生きる道が備えられた。私たちもこの命の道を歩もう。



  



 

  

 

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