礼拝説教要約「山を下りた主」(2024/8/4)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 9章14節~32節   イザヤ書 53章6節~10節

   

 山の上で栄光に輝いた主イエスは、山を下り、この世のただ中に入って行った。主の栄光を見た3人の弟子たちも主と共に山を下りた。

 主が山を下りた時、そこは悪霊が力を奮っていた。悪霊に苦しめられている息子を持つ父親が来て「私どもを憐れんでお助け下さい」と願った。これは世界の叫びである。悪霊はこの子の人間性を奪い、命の危機に直面させた。またコミュニケーションをできなくした。悪霊は人間性を奪い、人と人とを理解できなくし、疑いや憎しみ、対立を引き起こす。今の世界は悪霊に苦しめられている。それに対し人は無力である。悪霊を追い出す権能が授けられた主の弟子たちも、主が山に登って共におられない時、無力であった。

主はその姿を「なんと不信仰な時代なのか」と嘆く。さらにそれは祈りなき姿でもある。弟子たちは祈ったが、祈りが自分の力や人の方に向いてしまうのである。それは私たちにも問われる。

 しかし主イエスはこのただ中に来て下さった。そして主は信仰なき時代を嘆きつつ、その子から悪霊を追い出し、立ち上がらせた。主は嘆きつつ私たちを愛し、救いを与えた。

 この後、主は再度の受難予告を語る。栄光に輝き、悪霊を追い出して神の力を示された主は、人々の手に渡され、殺され、三日の後に復活するのである。この主の受難こそが世界の救いである。主は信仰なき私たちの罪をすべて負って、十字架の道を歩まれた。そこに私たちの救いがある。

 この主の憐れみを受けた私たちは、この父親のように「信じます。信仰のない私をお助けください」と告白する。不信仰も弱さもすべて主にお委ねして、主の憐れみにすがるのである。平和聖日にあたり、私たちも山を下りた主の憐れみの中で、キリストの平和を祈ろう。



  



 

  

 

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