礼拝説教要約「宣教の準備」 (2025/3/9)を掲載しました

担当   甲賀正彦牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マタイによる福音書 4章1節~11節   申命記 30章15節~20節
  
イエス様は40日の断食の後、悪魔の試みを受けました。40日は人間の限界を超えています。生きるか死ぬかのギリギリの状態です。イエス様は、石をパンに変えない、飛び降りない、拝まない。何かをすることがありません。イエス様がしたことは、わずかな御言葉で対抗すること、その御言葉は子どもの暗誦聖句でした。意識が朦朧とする中でも、子どもの頃覚えた言葉は体が覚えています。悪魔との戦いは知恵比べではありません。自分の力を削ぎ落として、自分を無にして、神様にだけ頼る経験をする。それがイエス様の宣教の準備であり、私たちの宣教の準備でもあります。

 宣教とは、策に溺れる事なく、子供のような素直さで事に当たる、ということではないでしょうか? 難しい理論武装などしないで、大切なことだけを覚えて、身軽に、手ぶらで、無力な子供のように「教会に行こうよ、一緒に聖書を読もうよ、お茶を飲もうよ、カレーを食べようよ、一緒に讃美歌を歌おうよ!」それでいいのではないでしょうか? 

 ただ、子どものように無防備に心を開くと、拒絶されたとき傷つきます。まごころを傷つけられると傷は深い、でも挫けてはいけない。イエス様は共にいてくださり、傷を癒してくださいます。教会の仲間もいます。「そう、宣教は難しいよね」。みんなわかってくれます。宣教は簡単だ、なんて言う人に私は会ったことがありません。

 礼拝が終わると、私たちはこの世に送り出されます。「心の中に蒔かれたその種、行動の花を開かせる」のです。御言葉は私たちを元気にする種ですが「行動の花を開かせる」までにはなかなか行かず、種をにぎりしめたまま、教会に帰ってきてしまうのです。しかし、いつか蒔くときは来ます。

 送り出されるのは平和を実現するため。どんなに小さな平和でも、作り出せればそれは素晴らしいこと。平和を作り出すことは宣教、共に喜ぶことができるのが宣教です。



  



 

  

 

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