礼拝説教要約「実を結ぶ者」熊江秀一牧師」(2023/11/12)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所
  
  マルコによる福音書 4章1節~20節   イザヤ書 55章10節~11節

■説教要約

 主イエスはよくたとえを用いられた。「見るには見るが認めず、聞くには聞くが、理解できない」私たちに「神の国の秘密」を示すためである。

今日のたとえは、道端、石地、茨の中、良い地に蒔かれた種のたとえである。主自ら解説もして下さった。私たちはこのたとえで人間を4種類に分類してはならない。むしろこれは御言葉に対する4つの心を示す。私たちはある時は道端、石地、茨の地であった。初めから良い地ではなかった。農夫は実りのために、長い時間をかけ手入れをして実りの時を迎える。農夫である神も、私たちの実りのために石地を砕き、茨を焼き、かたくなな私たちの心を耕し、種を蒔き続けられる。

 この神が蒔かれた種、神の言葉は主イエスご自身でもある。主イエスは受肉した神の言である。

 ドイツの詩人ゲーテがこんな詩を書いた。「あの種蒔きの男みたいにふらふらしてはいけないよ。あの男ときたら、偶然のいたずらに身をまかせ、こちらで道の上に種を蒔いたかと思えば、あちらで茨の中に種を蒔いてしまった。そんなことをしてはいけないよ。耕された土地の上にだけ、祝福を蒔きなさい」。

 ゲーテが言うことは人間の知恵で言えば常識である。しかしもし神がこのような姿で私たちに係わり、良い地にだけ、種である主イエスを蒔いたとしたら、救われる者はだれ一人いない。

 神は人間の知恵から見ると愚かとも言える姿で、御言葉の種、主イエスをすべての人に下さった。良い地だけでなく、道端、石地、茨の心にも主は来て下さった。そして主の命による実を結んで下さった。
神はこの時も、私たちに主イエスという御言葉の種を蒔き続け、私たちの心を耕し、主の命の実を結ぶように手入れをなさる。実を結ぶ者として歩もう



 



 



  



 

  

 

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