礼拝説教要約「子どものように」(2024/10/6)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 10章13節~16節   イザヤ書 43章1節~7節

   

 主イエスに触れていただくために人々は子どもたちを連れて来た。しかし弟子たちはその人々を叱った。主をわずらわせてはならないという思いからである。
しかし主は「これを見て憤り」「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と告げた。そして子どもたちを「祝福された」。

 この時の弟子たちを笑って済まされない。私たちも同じことをしてしまうからである。私たちも子どもが主と出会う機会を妨げていないか。しかも弟子と同じように自分の価値基準で、良かれと思ってそうしていないか。

  私たちはこの時の主の憤りを忘れてはならない。そして子どもが主と出会うことができるように祈り仕えたい。

 この時、主イエスは「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とも告げた。

「子どものように」は間違って理解されやすい。「純粋、無垢で罪がない」ことだと理解されやすい。しかしそれが神の国に入る条件だとしたら、だれも神の国に入ることはできない さらに子どもはそういう者か。愛らしさの反面、わがまま、残酷さも兼ね備えている。

 マルコはこの出来事を、原文では子どもたちが一方的に主の前に連れて来られ、祝福を受けたこととして記す。「子どものように」とは、与えられる一方的な恵みを、ただ信頼して受けて生きることである。

 私たちが神の子どもであることを今一度心に留めよう。「子どものように」、神の愛に身を委ね、信頼して、神の国の恵みに生きよう。そしてこの恵みを周りの子どもたちにも届けよう。 世界聖餐日にあたり、世界中のすべての人が神の子どもとして、祝福に招かれていることを思い、共に聖餐を受けよう。



  



 

  

 

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