礼拝説教要約「命にあずかる道」(2024/9/15)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 9章42節~50節 エレミヤ書 19章1節~5節
主イエスは、私たちに命にあずかる道を教える。まず主は「小さな者」をつまずかせてはならないと語る。主はこの言葉を、幼子を抱きながら語った。「私の名のために子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れる」(33節)。そしてこの「小さな者」をつまずかせてはならないと語った。
さらに主は、自分自身をつまずかせてしまうことに対する警告を語る。片手、片足、片目が自分をつまずかせるならば、それを切り捨て、命に入るように語る。
「つまずき」は、ギリシャ語で「スカンダロン」(罠)。英語では「スキャンダル」。多くの有名人がスキャンダルによって失脚した。だから彼らは「スキャンダル」を防ぐことに力を注ぐ。それでは「つまずき」という神に対するスキャンダルに対してどうか。それに対して無力である私たちに、主は二つのことを教える。
一つは神以外を神としない。「ゲヘナ」(地獄)の元はエレミヤ書19章「ベン・ヒノム」である。そこはエルサレムのゴミ捨て場であったが、偶像バアルを礼拝し、子をいけにえとする高台もあった。すなわち主を捨て、バアルに子どもを捧げた場所が地獄(ゲヘナ)と呼ばれた。まことの神を捨て、神以外を神とする時、ゲヘナは現実となる。神以外を神としない。それが命にあずかる道である。
もう一つは「塩」を持つこと。私たちは信仰という塩を持つことで、他者も自分も活かされ、滅びから逃れられる。「人は皆、火で塩気をつけられねばならない」。この火とは「ゲヘナの火」。主は私たちに代わって、十字架で地獄の火の苦しみを受け、私たちは救われ、信仰の塩味が与えられた。 主が十字架の火によって与えて下さった信仰の「塩」を持って、ただ神のみを礼拝し、命にあずかる道を歩もう。