礼拝説教要約「受難の主」(2023/3/5)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師 

■聖書箇所

ヨハネによる福音書 18章1~11節  出エジプト記 3章13~15節

■説教要約

ユダの裏切りと主の逮捕という主イエスの受難の箇所が与えられた。ヨハネは主の受難を悲劇ではなく、主の栄光の出来事として記す。

主イエスは最後の晩餐の席での決別説教と祈りを終え、弟子たちと「キドロンの谷」の向こうへ行かれた。
高台のエルサレムとオリーブ山の間のその谷は「暗い谷」という意味である。この谷には神殿の犠牲の小羊の血が流された。過越祭には何万の小羊の血がこの谷に流れたのである。その谷に主が下られたことを思う時、神の小羊である主イエスの犠牲を思わずにはいられない。
 この谷の向こうに園(ゲッセマネ)があった。主は弟子とこの園に共に度々集まっていた。彼らにとって教会のような場所である。そこで主は弟子に裏切られ、逮捕された。

その時、主はすべてをご存知の上で、捕らえに来た者たちの前に「わたしである」と自ら進み出た。
主は私たちを救うために自ら受難に進み出て下さったのである。

「わたしである」(ギリシャ語「エゴー・エイミ」)はヨハネではご自身を示す言葉である。同時に旧約聖書では神の民に示された神の名である。主イエスは神の名を現わし受難に進み出た。その時、捕らえに来た人々は「後ずさりし」「倒れた」(平伏したとも訳せる)。世界を支配したローマの一隊も世の権力者も主の前に倒れ平伏したのである。

主イエスは「父がお与えになった杯」を一人受け入れ、受難の道を歩まれた。
そうすることで主は私たち一人一人を守って下さった。もはや私たちは剣を取る必要はない。
主が十字架の命を持って戦って下さる。

私たちの救いのために神の小羊が低く降り、自ら苦難の道に進み出て、私たちを守って下さる。主は受難によって栄光を現わされる。主に希望を持って歩もう。





  



 

  

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です