礼拝説教要約「受難のキリスト」 (2025/4/6)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マタイによる福音書 26章57~75節 イザヤ書 53章6節~10節
主の裁判の箇所が与えられた。それは主を死刑にするために偽証を求め、弁護人もいない不当な裁判であった。この時の人々の中に私たちの姿もある。私たちは神の御子さえも十字架にかけて殺す罪人である。
裁判の時、自分の罪に気づき、泣いた人がいた。ペトロである。彼は大祭司の官邸に忍び込み、裁判を見届けていた。その時、主と一緒にいたことを指摘される。彼は三度「そんな人は知らない」と否定する。その時、鶏が鳴いた。ペトロは「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」との主の言葉を思い出し激しく泣いた。
ペトロは主と共にいることを否定した。マタイ福音書では「主が共にいる」ことが福音として告げられる。ペトロはその恵みを自ら断ち切った。ペトロの涙は私たちの涙でもある。
この時、主は沈黙しておられた。主はこの裁判が不当であることも、その場にいる人々の悪意も、私たちの罪もすべてご存じであった。それに対して神の怒りを下すこともできた。しかし主は沈黙し、神の小羊として私たちの罪を背負い、神の裁きを受けた。私たちを執り成して、御自分の命を捧げて下さった。 主はペトロのことも見ておられた。「わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った」(ルカ22:31)。ペトロの涙は自分の弱さと罪を嘆き悲しむ涙であると同時に、主の愛のまなざしの中で流した悔い改めの涙である。