礼拝説教要約「十字架の道」(2025/10/12)を掲載しました 

担当   熊江秀一 牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 15章21~32節   詩編 22章7~19節
  
 主の十字架の道筋が与えられた。「ヴィア・ドロロサ」と呼ばれる道である。

ここから二つのことを心に刻みたい。一つはこの「ヴィア・ドロロサ」が悲しみの道と呼ばれるように、私たちが心から悔い、悲しむことである。しかもそれは主に対してよりも、自分の罪に対してである。「エルサレムの娘たち、私のために泣くな。自分と自分の子供達のために泣け」(ルカ23:28)。この十字架は、本来は私たちが受けるべき裁きである。

しかし悲しみつつ、主の十字架によって、私たちに神の救いが実現したことを心に刻みたい。「恵みと悲しみ、ひとつにとけあい、いばらはまばゆき、冠と輝く」(讃美歌297・4節)。悲しみは恵みと一つとなり神の栄光が輝く。

この救いがキレネ人シモンの出来事を通して語られる。彼は突然、兵士から十字架を担ぐ手伝いを課せられ、主と共に十字架を負って歩くことになった。

シモンの姿には弟子の姿が込められる。彼が十字架を「担が」されたは、主の招きの言葉「自分の十字架を負って、私に従いなさい」(8:34)の「負う」と同語である。シモンが十字架を担ぐ姿は、主に従う姿である。

しかしこの時、シモンは無理に担がされた。それは思いがけない選びだった。神の選びとはそうである。神は不思議な選びと導きで、私たちを主の業にお用いになる。そして思いもよらぬ神の恵みを与える。

シモンも、十字架を主と共に担ぐことで信仰へと導かれた。また妻も救われ、息子たちも教会の指導者となった。ここに神の摂理、主の十字架の救いの恵みを見る。

またこの「ヴィア・ドロロサ」には詩編22編とイザヤ書53章の二つの歌の実現を見る。それは悲しみの歌であると同時に、神の救いの歌である。私たちもこの救いの道を歩もう。

 



  



 

  

 

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