礼拝説教要約「十字架の判決」(2025/10/5)を掲載しました
担当 熊江秀一 牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 15章1~20節 イザヤ書 53章4~8節
十字架の判決の箇所が与えられた。この時、主を十字架につけることを強要したのは群衆であった。彼らはエルサレム入城の時、喜んで主を迎えた。その群衆が、主を「十字架につけろ」と叫んだ。私たちもその群衆の一人である。
ピラトによる裁判の最終的な結論は無罪であった。そればかりかこの訴えは「ねたみ」によると分かっていた。彼は物事を見抜く目を持っていた。だから主イエスを直ちに釈放するのが当然であった。しかし微妙な立場にいた彼は、祭りの恩赦を利用して、イエスを釈放しようとした。彼は人の目を恐れ、自分の立場を守るために、真実を曲げた。
彼のこの態度は群衆をつけあがらせる。イエスを死刑にし、代わりにバラバを釈放することを要求する。
群衆は、力によってユダヤを再建しようとしたバラバの釈放を求め、愛に生きた罪なきイエスを殺すことを求めた。
この姿は象徴的である。愛よりも力を、神の恵みよりこの世的な豊かさを、彼らは選んだ。これは私たちの姿である。私たちも主イエスよりもバラバを求めているのではないかと問われる。
さらに主の十字架の姿は、人に潜むねたみや憎しみが一気に吹き出し、弱者となられた主イエスをたたきのめす姿である。それはかつてのユダヤ人虐殺、現代のいじめや弱者虐待と同じ姿である。
しかし主はそんな人間を受け入れ、黙って十字架の道を歩まれた。それは罪と憎しみの刃を持って切りかかる人間を、切り裂かれながら、なおも愛を持って抱き締める姿である。主はこの私たちの罪を背負って十字架の道を歩まれた。
ここに私たちの救いがある。人類史上最も暗い、罪の極みの出来事を、神は希望の光輝く救いの出来事へと変えられた。主をほめたたえ、福音を宣べ伝える使命に仕えよう。