礼拝説教要約「十字架による救い」 (2025/4/13)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マタイによる福音書 27章45~56節 ゼカリヤ書 9章9節~10節
棕櫚の主日に主イエスの十字架の死の場面が与えられた。
主は十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。
この叫びを思う時、神の御子にあの叫びをさせた自分の罪の重さを感じる。本当ならば罪の報いとして、私たちがあの絶叫をしなければならなかった。それを主は私たちに代わって叫ばれた。
さらに忘れてはならないことは主にあの叫びをさせている神の行為である。神は主イエスを見捨てられた。それは言い換えれば、私たちが神に見捨てられるしかないということである。神の怒り、それが主の十字架である。私たちが味わうべき神の怒りを、主イエスが身に受けて下さった。
この時、神の御子はその権威を捨てて十字架の苦難を受けた。もし主イエスが、神の権威を持って自ら十字架を下り、エリヤや天の軍勢を引き連れて人々の前に立たれたとしたらどうなったであろう。私たちは滅ぶしかない。しかし主はそうされなかった。主は神の怒りをその身に受けて下さった。
この主の十字架上の叫びは詩編22編の実現であった。また十字架のお姿はイザヤ書53章の実現であった。主が神の怒りと苦難を受け、命を捨てられたことで、私たちに救いが与えられた。主の十字架は旧約聖書に預言された、苦難の僕による神の救いの実現である。
主イエスが息を引き取った時、神殿の垂れ幕が裂けた。これは神と人とをさえぎる隔てが、主の死によって取り除かれ、神と人がつながる新しい時が始まったことを示す。またその時、死も取り除かれた。
この時、百人隊長は「まことに、この人は神の子であった」と告白する者となった。私たちもイエスを神の子、救い主と告白し、十字架の主をお迎えして受難週を歩もう。