礼拝説教要約「信仰と祈りの力」 (2025/2/9)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 11章20節~33節 イザヤ書 5章1節~8節
神殿での宮清めをした主イエスに、祭司長たちは「何の権威でこのようなことをするのか」と問いただす。エルサレムの指導者であった彼らは、宮清めに腹を立てたのである。彼らは自分たちが神殿や町の権威者だと自負していた。
主イエスはこの問いに問いを返された。主に問うた彼らは、主に問われることになった。
私たちも主に対して「なぜ」「御心はどこにあるのか」と問うて生きている。その中で私たちは気づかされる。主に問うていた私たちが、実は主から問われていることを。
主と祭司長たちとの問答の主題は「権威」であった。「権威」について主に問うた彼らは自分たちの権威を主に問われた。
私たちも権威を与えられている。家庭や職場、さらに私たちは自分という人間の最高権威者である。この時に大切なことはその権威は神のものであり、神が私たちに託されたことである。私たちはそれを忘れ、自分の権威のように思い上がってしまう。
しかし権威(エクスーシア)は本来、神おひとりのものである。それは人間の不正、私利私欲や思いに左右されない。この神の権威の下で人間の権威は初めて正しいものとなる。主はこの真の権威について問う。
祭司長たちはこの主の問いに対して、答えを拒否した。しかしこの後、彼らはこの自分の権威を振りかざし、不正と力で主イエスを捕え、殺す。それが人の権威の姿であった。
それでは主はどうされたか。主はその答えを自らの歩みによって、十字架の道を歩まれることでお示しになった。神の権威を持つ主が、神の身分を捨て十字架にかかり、彼らの罪を担うことで、ご自分の権威を示された。
主はこの十字架の権威をもって「神を信じなさい」と信仰と祈りの力を宣言する。そして赦しの恵みへと招かれる。