礼拝説教要約「主イエスは私たちのきょうだい」(2026/2/8)を掲載しました 

担当   熊江 秀一 牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  ヘブライ人への手紙 2章10~13節  詩編 22章20~32節 

 ここには私たちが神の家族として招かれている恵みと喜びが語られる。それは「きょうだい」イエスである。イエスは罪人である私たちを「恥」と思わず「きょうだい」と呼んで下さる。

なぜ、私たちは、イエスから「きょうだい」と呼んでいただけるのか。それが神の御業、神から出る計画だからである。

「一つの源」である父なる神から、「聖とする方」イエスも、「聖とされる人」私たちも出ている。だから主と私たちは「きょうだい」である。この主によって私たちは「聖」(神のもの)とされ、神の特別の恵みを受ける。

それは「きょうだい」イエスが私たちの「救いの導き手」だからである。「救いの導き手」はよい羊飼である主の姿である。また「救いの創始者」(新共同訳聖書)、「パイオニア」である。主イエスは苦難を通して、私たちのために救いを創り出し、道を開拓して下さる長兄である。

この主が開いて下さった救いが旧約聖書から語られる。

「きょうだい」イエスは、家族である私たちに神の名を告げ知らせ、集会の中で神を賛美する恵みを与えて下さった。この詩編(22編)は十字架の主の歌である。主を十字架にかけるほどに私たちを愛された神の名が告げ知らされ、集会(教会)の中で賛美されるのである。

さらにイザヤ書8章を通して「わたしは神に信頼する」「見よ、私と神が私に与えて下さった子たちがいます」と宣言する。イザヤはそこに神の救いのしるしがあると言う。この姿は教会である。教会こそ神の名が告げ知らされ、賛美される救いのしるしである。それはどんな時代も変わらない。 主イエスが私たちを「きょうだい」と呼んで下さることを喜び、救いの導き手である兄イエスに導かれて信仰の旅を歩もう。

 



  



 

  

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です