礼拝説教要約「主イエスの力」(2023/10/29)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所
マルコによる福音書 3章20節~30節 イザヤ書 49章22節~26節
■説教要約
主が戻られると群衆が再び集まって来た。主はその一人一人と向き合い、愛し、いやした。
しかしこの主イエスの愛と力に対して無理解や冒涜があった。主の身内たちは「あの男は気が変になっている」といううわさに心奪われ「取り押さえに来た」。律法学者たちは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と冒涜した。
これらは罪の世の姿である。神の力を認めないどころか「気が変になっている」「悪霊の頭の力」と評価する。それはこの世自体が罪に染まり、狂っている姿である。それは今も変わらない。しかしその罪の世に主イエスは来られた。そして十字架により神の愛と救いを実現された。
今日の箇所でも主イエスは無理解と冒涜のただ中で、御言葉によって、神の国の到来を示し、救いへと招かれた。
主はまず、内輪もめの国と家のたとえで、悪霊の頭が悪霊を追い出すことは決してないと語る。さらに主はご自身を強盗にたとえた。すなわち悪魔に支配された私たちを、主が強盗のように押し入り、悪魔を縛り上げ、私たちを悪魔から奪い取ると語る。主は私たちを力づくに神の国の救いに入れて下さる。
さらに主は「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も赦される」と宣言する。主はご自分に対するどんな罪も受け取り、赦して下さる。しかし同時に主は「聖霊を冒涜するものは永遠に赦されない」と語る。「聖霊を冒涜する」とは神の救いの手を自ら振り払うことである。「冒涜する」は「冒涜し続ける」とも訳せる。私たちは聖霊を冒涜する罪を犯すことがあるかもしれない。しかし心から悔い改め、主に立ち返る時、主は救いの道を残される。 主は私たちを罪から奪い取って救い出して下さる。
この神の愛と力を確信し、救いの道を歩もう。