礼拝説教要約「主イエスに触れる」(2023/4/23)を掲載しました
担当 甲賀正彦伝道師
■聖書箇所
ルカによる福音書 24章36~43節 イザヤ書 51章1~6節
■説教要約
イエス様は焼いた魚の一切れを弟子たちの前で食べました。それはご自分のためではなく、弟子たちのため、その次の世代のため、私たちのため、復活を確信させるためでした。「触ってよく見なさい」、「亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」とイエス様は言われました。私たちは握手をする時、相手の手の体温と柔らかさ、力を受け止める骨を感じることができます。イエス様はしっかりと触れさせ、まじまじと見せて復活を確信させます。
イエス様の肉体を持った復活の出来事は、遠く隔たっていた天と地がつながることです。地が変わり始めることです。主の祈りで「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るとおり、地にもなり始めたのです。私たちは「御国を来らせたまえ」と祈ります。御国はどんなに素晴らしいだろうと思う。絶望的なこの世を捨てて早く行きたい、と思うかもしれない。しかし、私たちは御国に「行く」とは祈らず、「来たらせ」と祈るのです。イエス様が完成させるために来られる。その間、私たちは神様が「よし」とされたこの世を良くする任務が与えられています。その起点となるのは教会です。
死んで新しい体で復活したイエス様。私たちも洗礼によって罪に死に、新しく生まれました。聖餐のパンと葡萄液によって思い起こします。
讃美歌329「目覚めよ、歌えよ」は復活を宣言します。無駄のない言葉で、一つ一つ確認するかのように。「目覚めよ」と言っています。寝てたのでしょうか? そう、寝ぼけて忘れていたのかもしれません。洗礼による再生を、聖餐での思い起こしを、イエス様がこの地を支配されていることを。
ただ座して死を待つかのように天国に憧れて、後ろ向きな毎日を過ごしていた私たちに「目覚めよ!」喝を入れられたかのようです。確信を込めて、自ら言い聞かせるように、復活の喜びを歌いましょう。