礼拝説教要約「主を証しする人生」 (2024/12/29)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  ヨハネによる福音書 1章19節~34節    イザヤ書  40章1節~5節
  
 今年最後の主日に先週のヨハネ福音書のクリスマスに続く、洗礼者ヨハネの記事が与えられた。この福音書の告げる洗礼者ヨハネの姿は証言者である。

 ヨハネのもとにエルサレムから代表団が送られ「あなたはどなたですか」と尋ねた。悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたヨハネのもとに多くの人が集まり、民は彼に待ち望んでいたメシアへの期待を抱いた。彼はメシアなのか。ヨハネは答えた。「私はメシアではない」。ではエリヤか。あの預言者か。「そうではない」。そしてヨハネは自らを「荒れ野で叫ぶ者の声」と答えた。

 このヨハネの姿は教会の姿である。教会も主イエスを証しする声にすぎないことを心に刻むことが大切である。ヨハネは言う。「私は後から来られる方」を証しする。「私はその方の履物のひもを解く値打ちもない」。履物のひもを解くのは当時奴隷の仕事であった。ヨハネは自分をそれ以下の者と言い、自分の栄光や誉れを求めることなく、ひたすら謙遜な姿で主を証しする使命に生きた。

なぜ洗礼者ヨハネはそこまで主を証しするのか。それはこのお方が「世の罪を取り除く神の小羊」「神の子」だからである。

 ヨハネが「荒れ野で叫ぶ者の声」と答える時に引用したイザヤ書40章から歌い始められる音楽作品にヘンデルの「メサイヤ」がある。序曲の後、テノールが「慰めよ、慰めよ、私の民を、とあなたがたの神が言われる」とイザヤ書40章1~3節を歌い始める。この歌い出しから始まるメサイヤは主イエスが神の小羊として私たちの救いのために十字架の道を歩まれることを歌う。 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。洗礼者ヨハネの証しするこの十字架の主をしっかりと見つめ、証ししつつ新年に向かって歩み出そう。



  



 

  

 

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