礼拝説教要約「主の歩まれた道は」(2025/8/17)を掲載しました
担当 熊江秀一 牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 14章43~52節 イザヤ書 53章1~6節
イスカリオテのユダによる主イエスへの裏切りと主の逮捕という受難の箇所が与えられた。
マルコは「十二人の一人であるユダ」と記す。ユダの裏切りは、十二弟子すべてに問われ、主の弟子である私たちも問われることである。
ユダは「接吻」して深い愛を込めて主を裏切った。ユダの裏切りには主に対する失望があった。自分のメシア像と、現実のイエスが違うことを知った時、彼の愛は裏切りへと転じた。私たちの愛は弱くもろい。このユダの姿は私たちの現実である。
主の逮捕には、ユダ以外にも弟子たちの悲しい姿が記される。
弟子の一人が、剣で大祭司の僕に打ちかかり、その片方の耳を切り落とした。ここには主を迫害する剣と主を守る剣の二つの姿がある。マタイで主は「剣を剣を取る者は皆、剣で滅びる」と告げる。主は剣を取る者は全て、滅びに向かうと宣言する。
またマルコは主の逮捕の時、裸で逃げ出した若者の姿として、主を見捨てた自分の弱さを記した。
主の逮捕の時、弟子は皆、主のことが心配だった。しかしマルコは弟子の結論として「イエスを見捨てて逃げてしまった」と告げる。
主は孤独であった。しかも人間に見捨てられるだけでなく、神に見捨てられる孤独であった。
主が孤独だということは、私たちも孤独だということである。しかし私たちはこの世の一時的な慰めに、自分の孤独を隠して生きている。私たちは主の受難を同情ではなく、自分の罪と弱さ、孤独に目を向ける時としたい。
しかしそんな私たちの救いのために主は十字架の道を歩まれた。そして「彼が受けた打ち傷によって私たちは癒された」。 主は私たちの罪も孤独も苦しみもすべて背負って十字架の道を歩んで下った。この十字架の主の招きに応え、信仰の道を歩もう。