礼拝説教要約「主の晩餐」(2025/7/20)を掲載しました
担当 熊江秀一 牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 14章22~25節 出エジプト記 24章1~8節
「主の晩餐」が与えられた。この出来事には二つの意味がある。
一つは、主イエスを中心とした愛の食卓。しかも主自らが備え、招いた食卓であることである。主と共に食卓を囲むことは、主から愛を頂くことである。教会での食事会は愛餐会(アガペ)と呼ばれる。しかもその愛はご自身を与える愛である。私たちは主の極みの愛を持って、主の晩餐に招かれている。
もう一つは、主がこの晩餐を新しい過越の食事としたことである。主イエスは私たちに決定的な救いを与える新しい過越の小羊となられた。主の裂かれた肉によって私たちの罪は赦され、主の流された血によって私たちは贖われた。
主イエスはその恵みを心に刻むために聖餐を制定された。私たちは聖餐のパンを頂く毎に、主が全てを与えて犠牲になられた贖いの恵みを受ける。そして杯を頂く毎に、神と人との契約(出エジプト記24章)、しかも動物によらず、主の血による新しい契約の恵みを頂く。
カトリック教会では聖餐のパンとぶどう酒は、神父の祈りによってキリストの肉と血に変わると理解する。しかしプロテスタント教会では主の十字架の記念として聖餐を行う。パンはパン、ぶどう酒はぶどう酒であるが、信仰を持って味わう時、聖霊によって主の体と血の恵みが私たちに満たされ、私たちは主と一つになる。主の十字架は私の罪のためであること、そんな罪人の私を主はなお愛し、食卓に招き、新しい契約を結ばれたことを心に留め、聖餐に預かろう。
主は最後に恵みの約束をする。主が再び来られ、救いが完成する「その日」、私たちは主に招かれ、主と共に神の国の祝宴に預かる。「その日」を待ち望み、その試食である聖餐を共に受けつつ、全ての人が主の晩餐に預かれるように伝道に仕えよう。