礼拝説教要約「主の招く声」 (2025/1/19)を掲載しました
担当 甲賀正彦牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マタイによる福音書 4章18節~25節 エゼキエル書 2章3節~7節
「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」、イエス様は仕事中の漁師たちに声をかけます。彼らはすぐに網を捨てて従います。あまりに展開があっさりしていて戸惑います。マタイはこの物語を、劇的で、偉大なものとして語ることを拒否しています。神の国は派手な演出から始まるのではなく、ありふれた日常の中から始まるものだからです。
弟子となった人は成長します。自分の幸せだけを考えていた人が、他者の幸せを祈る人へ。自分の住む地域の幸せだけを願う人から、全世界の幸せを願う人へ。心と視野が広がっていきます。自己中心から、他者のために生きるものへと変わる。それは悔い改めです。イエス様の呼ぶ声に応えるか、応えないか、どちらか。それが問われています。
讃美歌516「主の招く声が聞こえてくる」。それはどんな声でしょう? 私の場合は父の怒鳴り声です。「正彦、起きろ、教会に行くぞ!」日曜日の朝、なかなか布団から出られない私に、父は怒鳴り声で言うのです。父はサラリーマンでしたから、彼も疲れていたはずです。なぜそうまでして自分を奮い立たせ、子供達を起こすのか? それはイエス様が父を動かしているからです。そうでなければ日曜の朝、力は出ません。その声は今もクリアーです。はっきりとした声が今も聞こえてきます。
「私に従いなさい」今、私は言いました。でも言ったのは私ではありません。イエス様が私に言わせたのです。言え、声に出して言え、聞こえるように、はっきりと。 私だって言いたくありません。言葉と行いが全然一致しない私が偉そうに言えるはずがない。私に言う資格などありません。しかし、イエス様は人を用いて語りかけるのです。愚かな私に言わせるのです。神様は、宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おうとお決めになったのです。だから、もう一度言います「私に従いなさい」。