礼拝説教要約「ユダの裏入りの予告」 (2025/7/13)を掲載しました 

担当   熊江秀一 牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 14章10~21節   創世記 50章15~21節
  
 主イエスの受難はイスカリオテのユダの裏切りによって具体化する。ユダは自ら祭司長たちのもとに出かけ、主を引き渡すことを申し出た。彼らはそれを「喜んだ」。世にある喜びの中で、この時の喜びほど恐ろしい喜びはない。私たちも自分の満足のために他人を踏み付け、弱者を虐げて喜ぶ時、同じ姿となる。

なぜユダは主を裏切ったのか。様々な理解がある。マタイは金銭欲、ルカとヨハネはサタンがユダに入ったと理解する。他にも政治的メシアを求めたユダが主に失望したという理解もある。しかしマルコはユダの側の理由には関心を示さず、主の死は神の計画であるという立場に集中する。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く」。神は、ユダの裏切りという罪の極みの出来事さえも用いて、救いの計画を実現する。

「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださった」。

 神の救いの計画は「過越の食事」の準備でも明らかになる。

主は「過越の小羊を屠る日」に自らその準備をなさった。それは主が犠牲の小羊となり、民を救うという新しい過越を意味する。そして主自らがホストとなって、その恵みの食卓へと私たちを招く。

この食事に招かれた十二人には、主を裏切るユダ、主を拒否するペトロがいた。また主が弟子の裏切りを予告した時、全員が「まさか私のことでは」と言い、主の逮捕の時には全員が主を見捨てた。そんな弟子たちを主はただ愛ゆえに招いた。主を裏切る私たちをも、主はただ愛ゆえに救いへと招いて下さる。

 主イエスの受難を通して、自らの罪を悔い改め、私たちの悪さえも用いて救いを成し遂げる神の計画に希望を持って、信仰の旅を歩もう。

 



  



 

  

 

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