礼拝説教要約「ヘロデの罪」(2024/3/10)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(新共同訳)
  
  マルコによる福音書 6章14節~29節   詩編 51章3節~21節

■説教要約

理想の王と呼ばれたダビデと対照的な王はヘロデである。ヘロデは3代に渡って殺戮を繰り返し、イエスやパウロの裁判に関わった。

洗礼者ヨハネの殺害を行ったヘロデ王はヘロデ・アンティパスである。ガリラヤの領主であった彼は、イエスのことを聞き、自分が殺した洗礼者ヨハネの生き返りだと感じた。マルコはこのヘロデによるヨハネの殺害を語り始める。

ヘロデは、彼が兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したことを非難したヨハネを捕らえ、投獄した。しかしヘロデは、ヨハネの正しさを認め、その教えを「当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」。

このヘロデの当惑と喜びは、私たちが求道時代に経験する姿である。ヘロデも御言葉を求めていた。しかしヘロデはヨハネ殺害を命じた。王の誕生日、妻へロディアは娘(サロメ)に踊りをおどらせ、褒美をして「ヨハネの首」を求めさせたからである。

 ヘロデはヨハネの正しさを認め、御言葉を求めていた。なぜヘロデは罪を犯したのか。

それは悔い改めの有無である。ダビデも罪を犯した。その罪はヘロデと何ら変わらない。しかしダビデは預言者ナタンから罪を指摘された時、神の前に悔い改めたのである。

人間は誰でも罪を犯す。その時、神の前にどうあるのか問われる。御言葉を聞きつつ殺す。これが人間の罪の現実である。その究極の姿が主イエスの十字架である。人々は主を迎え、御言葉を聞きつつ、主を十字架で殺してしまった。私たちも御言葉を喜んで聞きつつ、殺し続けているのではないか。私たちは御言葉を聞いて、十字架の主の前に悔い改めことが大切である。

ダビデは悔い改めの歌を歌った。主の十字架の意味を思い、ダビデの悔い改めの歌を私たちも歌い、残るレントの時を歩もう。



 



 



  



 

  

 

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