礼拝説教要約「ダビデ王を超える方」 (2025/5/4)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 12章35~37節   詩編 110章1~7節
  
 主イエスは、ダビデの子としてのメシア待望に問いを投げた。

主イエスは、ダビデの歌である詩編110編を引用し「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と問うた。

 主イエスはダビデの家系から生まれた。神の子イエスが人となり、ダビデの家系に生まれたことは恵みの事実である。しかし主はここでダビデの子としてのメシア待望の中にある落とし穴を警告し、問うた。

 その一つは、メシアの救いをユダヤ民族という血縁に限定してしまうことである。それは選民思想につながる。救いは全世界のすべて人に与えられた。救いは血縁ではなく、恵みとして信仰によってのみ与えられる。これは私たちにも問われる。信仰以外の行いや捧げ物、家柄等に救いを求める誘惑がある。しかし救いはただ信仰のみである。

 もう一つは、メシアをどのような救い主とするかである。ユダヤ人たちはメシアにダビデ王の姿を重ねた。それは栄光の王であり、繁栄と豊かさをもたらすメシアであった。そのメシア像に主イエスは問いを与える。しかし神が与えたメシアは十字架の主、苦難の僕であった。メシア・イエスは、十字架によってご自身を罪の犠牲として捧げ、三日目に復活する。主イエスは受難のメシアである。

 この主の問いに弟子たちが応える時が来る。ペンテコステである。ペトロは同じ詩編110編を引用して宣言した。「だからイスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒2:36)。

 弟子たちは、十字架の主イエスこそメシア、全世界の救い主と告白した。私たちも十字架の主こそメシアと告白し、ただ信仰の道を歩もう。

 



  



 

  

 

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