礼拝説教要約「ゲツセマネの祈り」(2025/8/10)を掲載しました 

担当   熊江秀一 牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 14章32~42節   イザヤ書 50章10~11節
  
 主イエスは弟子たちと共にオリーブ山に出かけ、ゲツセマネで祈りの格闘をした。

 主はペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴い「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われた。この時の主は、弟子が目にしたことがない「苦しみ悩む」姿であった。主は「この杯(十字架の苦難)を私から取りのけてください」と祈った。この主の祈りは人間の罪の悲惨さを示す。神の御子が恐れ苦しみ悩むほどに人の罪は大きく悲惨である。しかし主はこの祈りの格闘の中「私の望みではなく、御心のままに」と十字架の使命を神の御心と受け入れた。この主の使命と祈りの姿の示すために、主は3人に祈りを共にすることを求めたのである。

 しかし彼らはこの時、眠ってしまった。しかも3度。「心ははやっても、肉体は弱い」。

なぜ彼らは眠ったのか。それは疲れ等で済ませられない。主の苦しみが自分の苦しみだと分からなかったからである。私たちは自分に苦難や悲しみが降りかかる時、眠気が吹き飛ぶ。彼らにとって主の苦難は他人事だったのである。この主の苦難は、本来は私たちが受けるべき罪の裁きだった。しかし彼らはそれが分からず、主の苦難は同情すべきことだけれど、結局は他人事だったのである。

このことは私たちにも問われる。私たちは泣かなければならない自分の罪の現実に気づいていない。祈らなければならない自分の罪に対して祈っていない。これが私たちの現実である。

 しかし主はそんな私たちの罪も、弱さも、全て身に受けて、私たちに代わって苦しまれた。弟子の無理解にもかかわらず、主は十字架を御心と受け入れ、立ち上がり進まれた。

この十字架の主を見上げ「目を覚まして祈っていなさい」との御言葉を心に刻み、御心を求めて歩んでゆこう。

 



  



 

  

 

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