礼拝説教要約「キリストの十字架」(2025/11/2)を掲載しました 

担当   熊江秀一 牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 15章33~41節   詩編 22章1~6節
  
 主イエスの十字架の死の場面が与えられた。それは「全地は暗くなり」罪の闇が世界を覆う出来事だった。しかし神はこの闇のただ中で救いの光を輝かせて下さった。それは主の命による神と人との和解であった。

 この時、主イエスは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。これは詩編22編2節の言葉である。主は十字架の苦難のどん底にありながら、父なる神を信頼し「わが神」と呼んだ。しかしこの叫びは同時に、私たち人間の罪の重さに対する叫びでもあった。主は人間の罪をあがなうために神に見捨てられなければならなかった。これは本来ならば罪人の私たちが受けるべきことである。その呪いを主が代わって受けて下さった。

私たちはイザヤ書53章のように「羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った」罪人であった。その罪の極みが神の子を十字架にかけて殺すことであった。

しかし主は罪人の私たちを拒絶するのではなく、受け入れて下さった。苦しみのただ中で、主は私たちを愛し抱き締めて下さった。「彼の受けた打ち傷によって私たちは癒された」。それはすべて神のご計画だった。

主が息を引き取った時、神殿の垂れ幕が、真っ二つに裂けた。その時、神と人との間をさえぎる隔てが取り除かれた。さらにその時、人と人との隔ての壁が壊された(エフェソ2:14)。主の十字架よって神と和解し、隣人と共に生きる道が開かれたのである。

この主イエスの十字架を見届けた百人隊長は「まことに、この人は神の子であった」と告白した。 私たちも百人隊長と共に私たちも十字架の主に対して、まことにこの人は神の子であったと告白しつつ、主が来られた意味を心に刻み、降誕前の日々を歩もう。

 



  



 

  

 

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