礼拝説教要約「ぶどう園と農夫のたとえ」 (2025/2/23)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 12章1節~12節 詩編 118章13節~29節
主イエスが語られた「ぶどう園と農夫のたとえ」が与えられた。
このぶどう園の主人は農夫に畑の管理を委ねて旅に出る。この主人と農夫の関係は私たちに対する神の姿を示す。この関係について二つを気づかされる。一つは、全ては神のものであり、私たちの持ち物は全て神から委ねられたこと。もう一つは、神は私たちを信頼して下さっていることである。
しかし農夫は主人の信頼を裏切ってしまう。
収穫の時、主人から僕が送られて来て、収穫の一部を納めるように命じる。しかし農夫は僕に何も持たせないで帰した。それでも主人は忍耐し僕を送った。しかし仕打ちはエスカレートし、僕たちは傷を負わされ、殺される。この内容は旧約聖書の神と人間の姿を凝縮したものである。
そして主人は一つの決断をする。息子を送ることである。しかし農夫たちは、彼の息子を捕まえ殺してしまった。ひどい話である。
これが現実となる。神は私たちのために一人子イエスを遣わした。しかし人々は主を受け入れず、十字架にかけて殺してしまった。
このたとえの結末は、主人が「農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人に与えるにちがいない」で終わる。それでは主を十字架で殺した私たちも同じ結末か。しかし主は十字架の出来事に人々の救いが備えられるという神の計画を語る。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったこと」。人々が捨てたイエスという石が、隅の親石となり、救いの石となると告げる。
人々はこのたとえを「当てつけ」と聞いた。彼らは主の心を理解していなかった。しかし私たちは気付きたい。私たちに対する主の愛と信頼を。そして悔い改めよう。主の十字架による救いの道を歩み、信仰に生きよう。