礼拝説教要約「だれが救われるのか」(2024/10/27)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 10章17節~34節   エレミヤ書 32章16節~25節

   

 主イエスのもとに「ある人」が来て「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねた。「ある人」はマタイでは「青年」、ルカでは「議員」と説明がある。しかしマルコでは「ある人」のみである。「ある人」とは誰か。それは私たち一人一人である。救いを求める私たちの姿である。

 主が戒め(十戒)を告げると、彼は「そういうことはみな、少年の頃から守ってきました」と答えた。すると主は「持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。・・・それから私に従いない」と告げた。

それを聞いた彼は「顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った」。

彼には主の言葉がよく分かっただろう。しかし彼はこの世の富を捨て去ることができなかった。

 彼の姿は私たちの姿である。使徒パウロもそんな姿を「私は何と惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:24)と告白した。それではだれが救われるのだろうか。

主はこの御言葉を「彼を見つめ、慈しんで言われた」。主は罪に縛られた彼の悩みと落胆の姿を見て、深く憐れみ、愛された。そして主は宣言する。「人にはできないが、神にはできる」。

彼は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と救いの条件を尋ねた。しかしその答えを聞いた時、彼は愕然とした。それは「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」ほどの困難なことであった。しかし主は救いを人間の側の条件ではなく、恵みによって備えて下さる。主イエスの貴い命という代価によって与えて下さる。

宗教改革(10月31日)は、救いが人の努力ではなく神の恵みによることを再発見した出来事である。罪人である私たちを愛し、一方的な恵みで義として下さる主イエスの神を信じて生きる。そこに教会の原点、救いの道がある。



  



 

  

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です