礼拝説教要約「たとえ小さな種でも」(2024/9/29)を掲載しました
担当 小友 聡 牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
コヘレトの言葉 11章1節~6節 マルコによる福音書 4章1節~19節
「コヘレトの言葉」は教会ではあまり読まれることがありません。この書には、「空」という言葉が38回も繰り返され、悲観的なことばかり書かれている印象があります。
けれども、11章1節には「パンを水面に投げよ」と書いてあります。これは施しの勧め、あるいは海洋貿易への促しを意味します。2節の「七つか八つに分けよ」もそうです。リスクの分散、あるいは分かち合いの勧めです。コヘレトは空しいことばかり考えているように見えますが、そうではないのです。前向きで、建設的です。
ここには「空」という言葉は出て来ませんが、「空」とは、人生は束の間だという意味です。旧約の時代、人生は40歳に届きませんでした。青春も束の間だったのです。けれども、その束の間の人生を精一杯生きよ、とコヘレトは一貫して教えているのです。
6節で「種を蒔け」と勧められます。その理由は、どの種が実を結ぶかわからないからです。だからこそ、朝から晩まで、種を蒔け。徹底して蒔きなさいとコヘレトは勧めます。
たとえ小さな種でも、いつか実を結びます。種を蒔いても、すべてだめかもしれない。けれども、諦めずに種を蒔くのです。蒔いても、すぐには実りません。待たねばなりません。ひょっとして実を食べられるのは、次の世代かもしれません。それでも、種を蒔くのです。ルターは「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう」と言いました。明日が終わりでも、私たちは今日、リンゴの木を植えます。これは、コヘレトと同じことを語ります。
マルコによる福音書4章の種蒔きのたとえでは、種とは御言葉の種、福音の種です。この種を蒔き続けましょう。小さな種でもいつかは実を結びます。そう信じて種を蒔き続けましょう。明日に向かって、種を蒔きましょう。