礼拝説教要約「いちばん偉い者」(2024/8/25)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 9章33節~37節   詩編 8章1節~10節

   

 「誰が一番偉いか」。主の弟子たちは言い合っていた。この姿をだれも笑うことはできない。私たちは常に他人を比較し、 自分が上にいることを望んでいる。

彼らにとって、主イエスは、どういう方だったのか。彼らは「あなたは、メシアです」と信仰を告白した。しかし十字架と復活を理解できない彼らは、主に従うことを、偉くなることと考えていた。

そんな弟子や私たちに、主イエスは本当の偉さを語る。「すべての人の後になり、すべての人に仕える者となる」ことである。

「偉い」は「選ぶ」という言葉からできている。神に選ばれ、神に愛されていることに本当の偉さ、価値がある。神に愛され、神の選びに生きる者は、すべての人の後になり、仕えて生きるのである。

さらに主イエスは一人の子どもを連れて来て、真ん中に立たせ、抱き寄せて言う。「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」。無力な小さい幼児を真ん中に置き、主の名によって受け入れる。主はそれが神の前に偉大な生き方だと宣言する。

 その先頭に立つのが主イエスご自身である。主は天の御座を捨てて、人となられ、私たちの罪を贖い、十字架の道を歩まれた。主自らが小さき者となり、私たちを愛して下さった。この主の愛と選びに生きる者は、主の御名のために、自分を小さくし、小さき者と共に歩む。

 このカファルナウムの家はペトロの実家だったと考えられる。主が抱き上げた子どもはペトロの最も身近な人であった。私たちが受け入れるべき人は、私たちの目の前にいる。最も身近な人を、主の御名のために受け入れる。それがこの世の中で主を受け入れることである。  十字架の主をあおぎつつ、主の愛と選びの中で、仕える人生を歩もう。



  



 

  

 

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