礼拝説教要約「あなたにとってイエスとは」(2025/8/31)を掲載しました
担当 熊江秀一 牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 14章53~65節 ダニエル書 7章1~14節
ユダの裏切りによって捕らえられた主イエスは、最高法院で裁判を受けた。
議員たちは主に対して不利な証言を求め、偽証によって罪に定めようとしたが、証言は一致しなかった。
この主への裁判は、まず死刑ありきであった。しかしどんなに悪意に満ちた偽証が語られても、主が有罪であることを証明できなかった。このことは意味がある。主が死刑となるのは、有罪が証明されたからではない。どんなに偽証を重ねても人間は主イエスを罪に定めることはできなかった。それではなぜ主は死刑となったのか。それは議長である大祭司の問いによった。
大祭司の「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という問いに対して主は口を開き、自らを明らかにした。
主は「私がそれである」と、神の名(エゴーエイミ)を告げ、自ら神の子であると告げる。
さらに「人の子が力ある方の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と、旧約聖書の二つの言葉を通して、自らが神の右に座り、雲に乗って再び世に来るメシアと宣言する。
大祭司はこの宣言を、神への冒涜として死刑を決議する。
私たちは、主が死刑と引き換えに示された主の宣言を心に刻みたい。そしてその宣言を代々の教会が告白してきた信仰として告白したい。
ここで主イエスはメシアとしての3つの姿を示した。
私たち罪人が受ける死の裁きを、自らが代わって受けて下さる方であること。復活し、神の右に座し、私たちを執り成し、すべてを治める方であること。世の終わりに雲に乗って来られ、救いを完成される方であること。
教会はこのお方への信仰を告白し、その信仰に生きる群れとして、主の3つの働き(預言者、祭司、王)を受け継いで宣教に生きる。私たちも信仰を告白しつつ、この時代の宣教に仕えよう。