愛による痛み(2021/6/27)熊江秀一牧師
■説教要約:
ローマ書の第二部(9~11章)の冒頭、パウロは悲しみ、心痛めている。それは同胞イスラエルに対する思いからである。
イスラエルは神から選ばれた民である。しかし彼らは恵みから離れ、キリストの救いを受け入れなかった。パウロはイスラエルの救いを心から祈りつつ、悲しみ、心痛めている。
このパウロの思いは私たちの思いでもある。私たちも家族や同胞の救いを心痛めつつ祈る。それは信仰からあふれ出る愛ゆえである。
しかもパウロは同胞が救われるのならば、キリストから離され、神から見捨てられてもかまわないとさえ語る。モーセが荒野の旅の途中、罪を犯した民のために命を懸けて執り成したように。
パウロはイスラエルの神の民としての特権を見る。しかもパウロはこの特権を、旧約の範囲だけで見るのでなく、彼らの中から生まれたキリストこそが、イスラエルにとっても最大の特権だと認めている。それが第二部、イスラエルの救いというテーマの柱となる。
この視点は私たちも隣人と向き合う時にも大切にしたい。すべての人が神によって造られ、生かされ、愛されている。そして何よりもこの隣人のためにもキリストは生まれ、十字架にかかって下さった。その信仰の視点で見る時、新たな愛の思いが与えられる。
しかしこのパウロや私たちの思いに先立って、心痛め、神に見捨てられた者となって下さった方がいる。それはキリストご自身である。
まずキリストが私たちの救いのために心を痛め、神に見捨てられ、十字架の道を歩んで、ご自分の命を捨てて下さった。そこに愛があり、救いがあり、希望がある。このキリストの愛の中で、私たちも家族や同胞、隣人のために執り成し、福音を宣べ伝えよう。