命の道(2022/3/6)熊江秀一牧師
■聖書個所:
エフェソの信徒への手紙2章1~10節、創世記3章1~7節
■説教要約:
エフェソ書は2章から本題に入る。パウロは死から命に至る救いの道を語る。
私たちは「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」。それは「この世を支配する者」(悪魔)の働きと、人間の「肉の欲望」による。私たちは内に欲望を持ちつつ、外からの悪魔の誘惑と戦わなければならない。しかし誘惑に負け、欲望を制御できず、過ちと罪に陥ってしまう。私たちは「生まれながらに神の怒りを受けるべきものだった」。
しかし「憐み深い神」は私たちを決して見捨てない。「この上なく愛して下さり」今やキリストにおいて救って下さった。
私たちは神に従ったから愛されたのではなく、神から離れ、罪を犯し、怒りを受けるべき現実にあったのに愛され救われた。「罪に死んでいた私たちをキリストと共に生かし」「共に復活させ」「共に天の王座に着かせて」下さった。私たちの罪と死の現実を断ち切るものはキリストの十字架と復活による神の愛である。
この救いは「恵みにより、信仰によって」与えられる。どんな立派な行いも功績も救いの条件とはならない。ただ一方的な神の恵みによる。信仰とはただ恵みをいただくことである。だから私たちは救われたことで決して誇ることはできない。むしろ神の前にへりくだる。
この救われた中から、私たちの新しい生き方が始まる。感謝の生活である。
救われた私たちは「善い業」を行うためにキリストにおいて造られた「神の作品」(口語訳)である。救いは「善い業」という実をみのらせる。それは救われた者の感謝の生活である。
「善い」は「祝福された」とも訳せる。神は私たちがこの祝福の道を歩むことを喜ばれる。
受難節の日々、主の苦しみを思い、悔い改めの感謝をもって、この命の道を歩もう。