アダムとキリスト(2021/4/11) 熊江秀一牧師
「一人の人」という呼び方で、二人の人が登場する。アダムとキリストである。この二人は人類の代表として、また私自身の現実の姿として語られる。
まずアダム。パウロは彼によって罪が世に入り、死が入ったと告げる。しかしそれはアダムに全人類の罪の責任があるということではない。私たちもアダム(人)として罪と死の現実にあり、その責任を免れることはできない。この罪は神の前での罪。神を中心とするではなく、自分を中心にする罪(原罪)である。私たちは自分の罪の現実をあまりにも知らない。しかしそんな私たちが聖書(御言葉)に触れる時、その見えなかった罪の現実が見えてくる。
しかし聖書は人間の罪を明らかにするだけで終わらない。それに勝る恵みを私たちに指し示す。それがもう一人の「一人の人」キリストである。
アダムとして罪と死の現実にあった私たちは、神の御子キリストが一人の人として来て下さったゆえに、罪と死から解放され、その恵みの賜物に生きることになった。
パウロは、アダムを「来るべき方を前もって表す者」(来るべき者の型・口語訳)と呼んだ。「型」はたい焼き等を作る時の型を意味する。すなわち罪と死の現実にあるアダムの型に、神の子が収まって下さり、その罪と死をご自分で負って下さったのである。
そしてパウロは宣言する。「罪が増したところには、恵みがいっそう満ちあふれました」 。深い罪の自覚の中で、キリストの恵みは満ちあふれる。
その時、罪と死に支配されていた時代は終わり、キリストの恵みと命に生きる新しい時代が始まった。この命の道が一人の人キリストによって実現した。このキリストの恵みを心に刻み、喜びと感謝にあふれて歩んで行こう。