礼拝説教要約「墓に葬られた主」(2025/11/9)を掲載しました
担当 熊江秀一 牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 15章42~47節 申命記 33章26~29節
主イエスが墓に葬られた箇所が与えられた。この出来事は、主の死が本当の死であったということを示す。しかしそれ以上に墓が主イエスの復活の命につながる新しい場となったことを示す。
主の葬りの出来事の中、神によってアリマタヤ出身のヨセフが用いられた。
ヨセフは「高名な議員」で「自らも神の国を待ち望んでいた」。彼は神の御心を求め、神の前に正しく生きる人であった。そんなヨセフは派閥や、民族主義的な視点から決議する他の議員たちとは違った。「同僚の決議や行動には同意しなかった」(ルカ)。ヨセフはイエスの十字架刑にも反対だった。しかしイエスに対する人々の憎しみの中、それを明らかにすることはできなかった。神の前に正しく生きつつも、何もすることもできない無力さを感じていたのである。この姿は私たちの姿である。
しかし神はヨセフをお用いになった。彼は主の遺体を引き取るためにピラトのもとに「思い切って」(勇気を出して)行った。
そして、主のなきがらを十字架から降ろし、亜麻布で包み、墓に葬った。この墓はヨセフが自分のために用意しておいた墓であった。
なぜヨセフに勇気が与えられたのか。それは十字架の主に待ち望んでいた「神の国」の実現を見たからである。彼が待ち望んで来た神の国の実現が十字架の主にあると確信したのである。それは百人隊長が「まことに、この人は神の子だった」と告白した姿と共通する。
ヨセフはこの葬りゆえに大きな恵みをいただく。それは主が自分の墓から復活するという恵みである。ヨセフの晩年は神の国を待ち望む人生から、神の国の恵みに生きる人生へとなった。そして死の時も、主が復活された墓で希望を持って迎えたのである。私たちもヨセフと共に、主の命の希望を歩もう。

